信州大学繊維学部(上田市)が創立100周年を迎え、23日には記念式典が開かれる。1910(明治43)年、上田蚕糸専門学校として設立、学制改革で信州大学繊維学部となった。この間、繊維に関する専門家など、計1万8670人の卒業生を送り出してきた。かつて国内には複数の大学に「繊維」の名称を持つ学部があったが、産業構造が変化していく中、いまでは全国で唯一の「繊維」学部となっている。これまでの歩みや現状、ユニークな研究、将来に向けた課題などをみる。
繊維学部のキャンパスは今、ちょっとした建設ラッシュだ。
構内東側で建設が進むのは、地上6階建てで来年2月完成予定の「ファイバーイノベーション・インキュベーター(Fii)施設」。その近くには同4月稼働予定の「植物工場研究開発拠点(先進植物工場研究センター)」が姿を見せている。そして西側には昨年完成した「先進ファイバー紡糸棟」がある。
濱田州博(くにひろ)学部長は「百年続いたということは、その間にいろんな改革をやって来たということ。変えてきたからこそ、いまがある」と1世紀を振り返る。
設立のきっかけは、明治政府が1907(明治40)年に高等専門の蚕糸業教育機関の設置を決めたこと。上田、長野、松本、諏訪の各地が激しい誘致合戦を展開し、文部省(当時)による実地調査で上田に決まった。10年、国内最初の蚕糸に関する高等教育機関で、県下初の国立学校が誕生した。
第1回入学試験の合格者は94人。約4.3倍の狭き門だった。出身別では県内が4割ほど、ほかは「28府県」にわたったという。いかに同校が全国から注目を集めていたかが分かる。
多くの専門家を輩出した100年だが、繊維産業の浮き沈みに翻弄(ほんろう)された。学部も存亡の危機に直面し、その難局をくぐり抜けてきた。
戦後、60年代までは繊維産業は隆盛を誇っていた。その当時、繊維化学科(当時)約30人に大手紡績や商社など500社から求人があり、学生の就職は「よりどりみどり」だったという。しかし、その後の「繊維不況」で様相は一変した。
「繊維は斜陽」というイメージが広がり、同学部への志願者は数年間、「国立大学中ワーストスリー」にランキング。「一部学科では定員割れを起こすほどだった」という。
「繊維」の名称廃止、「工学部への吸収」論も起こり、他大学では「繊維」から材料系や機械系、応用生物系などに改組されていった。
同学部の教官会議でも名称の存続派と転換派が激しく対立。しかし、当時の学部長をはじめ、「いくら繊維が下火になっても、人類が存続する限り、衣(繊維)がなくなることはない。繊維は必要だ」とし、学部維持が決まったという。
いま、繊維学部は「ファイバー工学」を掲げ、次の100年を目指す。濱田学部長は「繊維は応用範囲が広い素材だ」と語る。
衣類の分野にとどまらない。生活のあらゆる所で使用されている。炭素繊維に代表される産業資材、人工血管などのメディカル用繊維、建築用資材など、挙げるときりがない。
同学部は創造工学系と化学・材料系、応用生物学系の3系9課程があり、繊維の研究を根幹にナノファイバーや有機EL、半導体、太陽電池、燃料電池、感性工学、バイオなど、その幅は広い。論文数でも「繊維に関して世界の繊維系大学で1位、ナノファイバーで5位」(白井名誉教授)を誇るという。
濱田学部長は「繊維を学ぶなら上田(同学部)へ」と呼びかける。最終的な目標は「グローバル・ベスト・ワン」だ。「世界的な拠点として『繊維のことを知りたいならここに』と思わせるくらいにならねばならない」と語る。
ともすれば「繊維」のイメージは単に「衣服」などと取られがちだ。唯一を誇る「繊維学部」のもと、古いイメージを覆し、「繊維のおもしろさ」をいかにアピールしていくかが、課題だ。
仕事でよく上田には出掛けますが構内は建設ラッシュといった感じですね。そして繊維という範疇の中で様々な分野での研究が進んでいますね。かつては繊維王国などと呼ばれ長野にも桑畑が点在しおカイコさんを飼っている農家がたくさんありましたが今はほとんど見かけなくなりましたね。しかし、今後も新しい概念の繊維が日本を元気にしてくれそうですね。100年という節目を期に更なる発展をして欲しいですね。
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