産経の論説委員・清湖口敏(せこぐち さとし)「情緒の感応は母語でこそ」は今の日本の企業の英語公用化や小学校の英語必須化の流れを再考する事の必要を感じますね。一部を割愛して掲載させて頂きますがゆっくりお読み下さい。
日本人というのは国際競争のなかで自信を喪失すると、きまって日本語を貶(おとし)める民族であるらしい。維新前後のころしかり、先の敗戦後またしかり。欧米の先進的な科学技術を目の当たりにした日本人は、習熟に時間のかかる漢字を廃止し、国語表記をローマ字などの表音文字にせよと主張した。志賀直哉のようにフランス語を国語にせよと言いだす者までいた。
そして今また、激しい経済戦争にあえぐわが国で、国語を軽視する動きが目立っている。大手の通販会社や衣料会社が相次いで、英語を社内の公用語にすると発表したのである。ともに平成24年に実施する方針という。
国内の会社でありながら、なぜ日本人同士が英語で話し合わねばならないのか。世界企業としてよく知られるホンダの伊東孝紳社長は「ばかな話だ。英語が必要なやりとりは英語でやる。時と場合によって使い分ければいい」と一蹴(いっしゅう)した。おっしゃる通りである。
思えば英語を国際共通語とする認識は何も最近に始まったのではなく、明治期に既に、岡倉天心が英語で『茶の本』を著し、柔道の嘉納治五郎も英語教育に熱心に取り組んだ。茶という日本文化が外国に紹介され、柔道がJUDOとして世界に認められたのも、英語があればこそだった。
ましてや昨今のように経済のグローバル化が進むと、世界市場進出をもくろむ企業が経営戦略として英語を重視するようになるのも、ある程度は理解できる。だいいち私企業であるかぎり、企業の勝手でもあろう。しかし母語である日本語に代えて英語を公用語にするとなれば、それはどうみても行き過ぎであり、日本や日本人から何か大切なものが失われていくような気がしてならない。
日本人同士が英語で話し合っても最低限の意思の疎通、情報の伝達はかなうだろう。しかし母語での会話に比べれば、それは著しく情緒に欠け人間味に乏しいものとなるに違いなく、互いの信頼関係などどうして生まれ得よう。
言葉は実利のためだけの道具ではないことが明白である以上、ビジネス面の効率しか考えない英語の公用語化は、あまりにもさもしい発想といわねばならない。数学者の藤原正彦さんは『祖国とは国語』のなかで「脳の九割を利害得失で占められるのは止(や)むを得ないとして、残りの一割の内容で(人間としての)スケールが決まる」と述べ、その一割を美しい情緒で埋めるべきだと説いた。そして情緒を身につける成否は何より国語にかかっていると強調する。
私たちはともすれば、「情報」というものを単に「報(しら)せる内容」という程度の無機的なものにとらえがちだが、文書はさておき会話によってやりとりされる情報には、なにがしかの「こころ」が伴うのが必然である。「三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや」。この額田王の歌のように万葉集には「情」を「こころ」と読ませる歌がずいぶん多く、「情報」の「情」の意義をあらためて教えられる。
母語による会話ではとくに情が深くなる。母語は、話者同士が共有できる祖国愛や道徳観、惻隠(そくいん)の情などにあふれ、「察し」や「以心伝心」といった言わず語らずのうちに感応しあえる思いも豊富だ。人情味ある生きた会話とはこのようなものをいうのである。
有名企業の間で今後さらに英語の公用語化が進めば、仕事の能力や人格よりも英語力を優先する風潮が強まり、世の親はこぞって子供の出世のためだ、英語は金になるぞと、子供の英語教育に力を入れるようになるだろう。一方で国語は軽視され、ひいては人として大切な情操が失われていく。
平成16年に文化審議会が答申した「これからの時代に求められる国語力について」には、「近年の日本社会に見られる人心などの荒廃が、人間として持つべき感性・情緒を理解する力、すなわち、情緒力の欠如に起因する部分が大きい」「情緒力とは…他人の痛みを自分の痛みとして感じる心、美的感性、もののあわれ、懐かしさ…」「この力は自然に身に付くものではなく、主に国語教育を通して体得される」とあり、「祖国とは国語」を強く実感させる。
英語は何とも薄ぺらい言語ですね。確かに合理的ではありますが情は確かに感じませんね。日本語は言葉一つで様々な情景が浮かんできますね。俳句等も17文字の中に様々な情景や思いが込められています。こんな言語はないように感じますね。
日本の状況が厳しくなる今日であればこそ国語に立ち帰ることが必要な時代なのかもしれませんね。母国語を大事にすることが日本人の古来持って来た情緒やものの哀れを引き出してくれるように感じますね。それこそが世界にアピール出来る日本の素晴らしさではないでしょうかね。英語はあくまでも自分の意見や思いを伝える手段です。何を伝えるかが重要でしょう。その意味からいっても国語教育をもっともっと充実させるべきでしょうね。そして日本に日本文化に、その根幹をなす日本語に誇りを持って欲しい気がしますね。
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